紀伊半島の環境保と地域持続性ネットワーク 紀伊・環境保全&持続性研究所(三重県津市)
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  <紀伊半島の巨木を訪ねる>

 三重県亀山市野村の一里塚の大ムク

 江戸時代のはじめ、慶長9年(1604年)に、徳川幕府は日本の交通制度を整えるために、日本橋を起点とする幹線街道に、1里(約4km)ごとに一里塚を設置して道標としました。東海道は江戸と京都を結ぶ最重要街道であり、現在の東海道新幹線、東海道本線、名神高速道とは違って、三重県内を通っていました。東海道53次(53の宿場)のうち、三重県には、桑名宿、四日市宿、石薬師宿、庄野宿、亀山宿、関宿、坂下宿の7宿がありました。これらの宿場間には数多くの一里塚があったわけですが、三重県内では唯一、野村の一里塚が残っていて、昭和9年(1934年)に国の史跡として指定されました。

 亀山市野村の一里塚は、 Googleの地図では現在の県道565号線の北約60mの別の狭い道沿いにあります。地図では県道565号線に東海道と記されていますが、恐らく旧街道はその狭い道路であったのだろうと思われ、この道沿いには古い造りの家が見られます。4kmほど西に行った関宿でも国道1号線から約200m北側に車がすれ違うのがやっとの道幅の狭い旧街道が通っていて、昔の宿場として街並が保存されています。

 さて、多くの場合、一里塚のサイズは直径7〜8間(12.6〜14.4m)、高さは1間半から2間(2.7〜3.6m)とされていますが、野村の一里塚も大体この範囲に入る大きさです。ムクの大樹(幹回り約5m)が塚の頂上にしっかりと根を張って、枝をたくさん出し約20mの高さで旺盛に生育しています。

 江戸時代に築かれた一里塚は、塚に樹木が植栽され、一里塚が街道の両側に築かれる場合が多く、野村の一里塚も街道の両側に塚が築かれていました。しかし、南側にあった塚は大正年間に取り去られたと記録されています。江戸時代に、街道筋には並木が植えられ、一里塚にも樹が植えられ、長い道のりを旅する人々が、並木の木陰で夏の暑さをしのぎ、一里塚の木陰で休息を取ったことでしょう。
 
(写真をクリックすると拡大します)
亀山市野村の一里塚のムクの大樹。一里塚の上部に根を張って生育している。
ムクの大樹の根元は一里塚の上部にしっかりと根付いている。
野村一里塚の国指定史跡、および大ムクの大樹について表示・説明する石柱と石碑。
大ムクの枝の広がり。一里塚に隣接して民家が建ち、向かいの道路際には電線が張られており、大ムクの生育にとって環境が手狭な感じである。

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